今日はドイツ統一について解説します。定期試験の範囲がその分野なんです。かなりわかりにくい内容ですが、わかりやすくまとめるので最後まで見ていってください!
目次
ドイツ統一とは?
超簡単に説明するとオットー・フォン・ビスマルクという宰相がプロイセン王国を中心に、「鉄血政策」(戦争)という手段を使って、小さなドイツ諸国家をまとめ上げたプロセスのこと。
統一前のドイツはどんな感じ?

ドイツ統一(1871年)前のドイツの状況は、一言で言えば「小さな国家が乱立する緩やかな連合体」でした。現在の一つの国家としてのドイツは存在せず、その状況は「ドイツ問題」とも呼ばれていました。
ドイツ連邦と呼ばれる政治体制がありました。オーストリア帝国が主導する39の君主国と4つの自由都市(フランクフルト、ハンブルク、ブレーメン、リューベック)による緩やかな国家連合でした。しかし、オーストリアの発言権があまりにも大きかったため、議会は意味をなさなかったそうです。: 連邦内で最も力を持っていたのは、オーストリア帝国(ハプスブルク家)とプロイセン王国(ホーエンツォレルン家)の二大大国でした。この二国が後の統一の主導権を争うことになります。オーストリアがドイツを統一した場合は大ドイツ主義、プロイセンがオーストリアを含まずドイツを統一した場合は小ドイツ主義と呼ばれます。最終的に小ドイツ主義でドイツは統一されました。
ドイツ統一までの流れ
デンマーク戦争(1864年)→テストには関係ないので覚えなくてもいい
・シュレースヴィヒとホルシュタインを巡り、プロイセンとオーストリアがデンマークと戦いました。
・プロイセンが勝利後しシュレースヴィヒをプロイセンが、ホルシュタインをオーストリアが管理することになります。
普墺戦争(プロイセン・オーストリア戦争)(1866年)
・ホルシュタインの管理権を巡ってプロイセンとオーストリアが対立し、戦争が勃発しました。
・プロイセンが勝利し、オーストリアをドイツ統一の枠組みから排除しました。
・これにより北ドイツ連邦が成立し、プロイセン国王がその盟主となりました。→ドイツ統一の主導権を握った。
普仏戦争(プロイセン・フランス戦争)1870-1871年)
・スペイン王位継承問題などを契機に、プロイセンとフランスが戦争になりました。
・プロイセンが勝利し、フランス皇帝ナポレオン3世を捕虜にしました。
→この勝利により、南ドイツ諸邦(バイエルンなど)が北ドイツ連邦(プロイセン)に加わることになります。
ドイツ帝国の成立(1871年)
普仏戦争の勝利後、パリのヴェルサイユ宮殿鏡で、ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝として即位し、ドイツ帝国が成立しました。
これにより、プロイセンを中心としたドイツの統一が達成されました。
その後

フランスを中心としたドイツの周辺国はドイツにブチ切れている(自分の国の周りに突然巨大な帝国が生まれたから)。この状況が続き、周りの国からドイツが責められることになればドイツは負けてしまいます。そこでビスマルクは鉄血政策(戦争中心)をやめ、ビスマルク外交という周りの国と仲良くやっていこうという政策に切り替えられました。
覚えておくべき単語
プロイセン
ビスマルク
ビスマルク外交
鉄血政策
普墺戦争(プロイセン・オーストリア戦争)(1866年)
普仏戦争(プロイセン・フランス戦争)
ヴィルヘルム1世