今日は第一次世界大戦について紹介します。定期試験の範囲だからです。この記事で学べることは↓
- なぜ第一次世界大戦が起きたのか
- 戦争勃発から終戦まで
- ロシア革命
- 戦後処理
目次
なぜ第一次世界大戦が起きたのか

第一次世界大戦はフランス・ロシア・イギリス陣営(協商国)VSドイツ・オーストリアハンガリー・オスマン(中央同盟国)という構図で行われました。
理由1 フランスのドイツに対する恨み
この構図になった理由を理解するにはドイツ帝国の成立を引き起こしたプロイセンフランス戦争(普仏戦争)が要です。この戦争によってフランスはパリを包囲されプロイセンに敗北、屈辱を味わいました。これ以降フランスでは対ドイツの世論が盛んとなりロシアやイギリスなどドイツを包囲するように同盟国を作っていきました。さらにドイツというデカい国がヨーロッパの真ん中に突然生まれたようなものなので周りの国は相当怖がっていたのだと思います。
理由2 ドイツの世界政策

ドイツ帝国成立後、つまりヴィルヘルム1世の治世でのドイツ外交はビスマルク外交と呼ばれるドイツに対して恨みを持つフランスを外交的に包囲するために近隣のロシアやイギリスと融和的な外交を行うというものでした。やっぱりヨーロッパの真ん中にドイツ帝国のようなデカい国が現れると周りの国は怖いですからね。しかし、ヴィルヘルム二世の治世になると世界政策と呼ばれるアフリカに植民地を作ったり(モロッコ危機と呼ばれるフランスとの紛争を引き起こした)、海軍をイギリスと競い合ったりという攻撃的な外交になりました。これがフランスやロシアの結束を生み出し、第一次世界大戦へ繋がったと考えて良いでしょう。
第一次世界大戦の推移
サラエボ事件と戦争の勃発

セルビアの民族主義者ガヴリロ・プリンツィプがボスニアのサラエボを訪れていたオーストリアの皇太子を射殺しました。これをサラエボ事件といいます。これをきっかけにオーストリアはセルビアに宣戦布告、同じスラブ系の民族ということでロシアがセルビア側に付いて参戦、その後オーストリアがドイツに頼んでドイツも参戦、フランスもドイツに仕返しするいい機会としてセルビア・ロシア側に付いて参戦しました。連鎖的に世界大戦は始まりました。
イギリスの参戦

第一次世界大戦がはじまるとドイツはすぐにシュリーフェンプランと呼ばれるフランスへの侵攻作戦を開始しました。この作戦は永世中立国であるベルギーから迂回してフランスへ侵攻する(独仏国境は要塞化されていたため)という内容でした。ただ永世中立国であるベルギーを侵略することはベルギーの安全保障をしていたイギリスの参戦を招きました。この作戦は最初うまくいったもののフランス国境を超えたあたりで進軍スピードが低下し最終的に膠着しました。この戦線(西部戦線)は終戦までほぼ動きのない戦線(塹壕のせい)となりました。
ロシア革命

ドイツvsフランスイギリスの西部戦線は完全に膠着していましたがドイツ・オーストリアvsロシアの東部戦線はドイツが優勢でした。1917年、敗色濃厚で食糧不足も起きていたロシアでは社会不安がさらに増大。2月革命が起きました。この革命はロシアの皇帝(ツァーリ)を打倒する革命でした。最終的に革命は成功しロシア臨時政府(ソ連ではないよ)が政治を掌握、皇帝一家は最終的に殺されました。ロシア臨時政府はドイツとまだ戦うことを宣言しました。そして4月、スイスからドイツが手配した列車に乗ってレーニンがロシアに送られました(レーニンは亡命していた)。この後、社会主義革命である10月革命が勃発します。この革命によってボリシェビキ(共産主義政治団体)率いるソビエト連邦が誕生しました。ソ連はドイツと講和し、ウクライナなどをの地域がドイツのものとなりました。
2月革命→皇帝の打倒
10月革命→臨時政府を打倒しソ連誕生
アメリカの参戦
1917年、ドイツはイギリスを戦争から離脱させるために無制限潜水艦作戦を開始しました。これは植民地からの供給に依存するイギリスを困窮させるためにイギリスの周りにいる商船をすべて潜水艦によって沈めるという作戦でした。しかしこの作戦によってアメリカの商船も撃沈されるようになるとアメリカはドイツに宣戦布告しました。アメリカは膨大な物量をヨーロッパの西部戦線に派遣、ドイツは西部戦線でさらに困窮する結果となりました。
ドイツの敗戦とヴェルサイユ条約
キール軍港の水兵反乱とドイツ革命

1918年10月末、敗色が濃厚となったドイツ海軍司令部は、イギリス艦隊との決戦を企図した無謀な出撃命令を発しました。しかし、戦局の悪化を認識していた水兵たちは、この作戦が事実上の「死の出撃」に過ぎないと捉え、命令の実行を拒否しました。この反乱は全国的な革命運動につながり、皇帝ヴィルヘルム2世は退位が不可避と判断。11月9日、ヴィルヘルム2世はオランダに亡命し、帝政ドイツは崩壊しました。
ヴェルサイユ条約
ドイツは敗戦、協商国と講和を結びました。1919年6月28日に調印されたヴェルサイユ条約は、第一次世界大戦の戦勝国と敗戦国ドイツとの間に結ばれた講和条約です。この条約は、ドイツに対して非常に厳しい内容であり、その後のドイツ国内の不安定化や、最終的には第二次世界大戦の一因となったことでも知られています。↓内容
1. 領土の割譲
- アルザス=ロレーヌ地方をフランスに返還。
- 西プロイセンなどをポーランドに割譲。これにより、ドイツ本国と東プロイセンが分断され、「ポーランド回廊」が誕生しました。
- ダンツィヒ(現在のグダニスク)は自由市となり、ポーランドの保護下に置かれました。
- ザール地方の炭田は、15年間国際連盟の管理下に置かれ、フランスが採掘権を得ました。
- 海外の全植民地を喪失(イギリス、フランス、日本などが委任統治領として分割)。
2. 軍事制限
- 陸軍: 将兵合わせて10万人以下に制限(徴兵制禁止、義勇兵制)。
- 海軍: 戦艦は6隻まで、潜水艦の保有・建造は禁止。
- 空軍: 航空機の保有は全面禁止。
- ラインラント: ライン川左岸および右岸50kmは非武装地帯と定められ、ドイツ軍の駐留・軍事演習が禁止されました。
3. 戦争責任と賠償
- 戦争責任条項(第231条): ドイツおよびその同盟国が、連合国に損害を与えた戦争の原因を作ったという、すべての責任をドイツに負わせる条項。これはドイツ国民に強い屈辱感を与えました。
- 賠償金: 戦勝国が受けた損害を補償するため、巨額の賠償金が課されました。1921年までに総額が決定されることとなり、最終的に1,320億金マルクという天文学的な金額が提示されました(後に何度か減額・停止されています)。
絶対覚えるべき事項
・サラエボ事件
・協商国(フランス・イギリス・ロシア)と中央同盟国(ドイツ・オーストリア・オスマン)
・2月革命と10月革命
・ロシア臨時政府とボリシェビキ(共産主義側)
・ドイツ革命
・ヴェルサイユ条約
・ワイマール共和国
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